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名門再建を託された西武ライオンズ・辻監督の「苦悩と改革」

二宮清純氏による面白い記事が
ありましたので転載します。


でも今年の辻ライオンズ。
まあ、疑問符のつく采配も散見しますが、
全体的に見て、ライオンズは、
監督が辻氏に代わって「正解」だったと思います。


今後も、厳しい状況・茨の道は続きますが、
楽しみが膨らみます。よろしくお願いします。


(追伸)
田辺氏自叙伝「苦悩と低迷」出しませんか?



名門再建を託された西武ライオンズ・辻監督の「苦悩と改革」
守備職人が、野球を変える
二宮 清純


「常勝軍団」と呼ばれた西武が、昨季まで3年連続のBクラス。球団創設期以来の屈辱にチームの建て直しを託されたのは、かつて8度のゴールデングラブ賞に輝いた「最強の守備職人」だった。


不意に巡ってきたチャンス
  リーグ優勝5回、日本一3回の名将・野村克也が講演で好んで使うフレーズがある。
「男で生まれてきて、なってみたいものは三つある。オーケストラの指揮者と連合艦隊の司令長官、そしてプロ野球(NPB)の監督だ」
 選手としての優勝と監督としての優勝は、どちらがうれしいか。野村は「そんなもの比べ物にならない」と語ったものだ。
 戦略を描き、戦術を駆使し、用兵に知恵を絞る。その挙げ句の優勝で得られるカタルシスこそは、野村の言葉を借りれば、「男の本懐」ということになる。
 とはいえ、NPBにおける監督の椅子は、わずか12。現政権の大臣の椅子(19)より少ない。
 なろうと思ってなれるものではない。選手やコーチ時代の実績はもちろん大事だが、それはあくまでも必要条件であって必要十分条件ではない。わずかばかりの運も要る。


 今季から埼玉西武ライオンズの指揮を執っている辻発彦は、私見を述べれば、もう少し早く監督になってもよかった人物である。選手として10回(うち日本一7回)。
 コーチとして3回(同2回)の優勝は、その実績だけを見れば、超の字のつく監督の有資格者だ。野球を知悉し、コーチになってからは選手育成に定評があった。日本代表が世界一となった'06年の第1回WBCでは内野守備・走塁コーチとして王貞治監督を支えた。
 逆に言えば、だからこそ時の監督は有能なコーチである辻を手放したくなかったのである。
 だが不意にチャンスは巡ってきた。昨秋、辻のケータイに一本の電話が入った。古巣西武の球団本部長からだった。


「監督をやってもらいたいんです」
「……とりあえず家に来てもらえませんか」


 辻は中日の一軍作戦兼内野守備コーチをしていた。魅力的なオファーではあったが、まずは所属球団の許可を得なければならない。
 当時のGMは、監督時代に自らを中日に招き入れた落合博満である。


「何の役で誘われたんだ?」
「監督です」
「だったら頑張れ。応援するよ。コーチなら出さないけど、監督なら話は別だ」


 こうして辻は22年ぶりにライオンズのユニフォームに袖を通すことになった。


昨季のエラーは101個
 託されたミッションは名門再建――。昨年は優勝した北海道日本ハムに23ゲーム差を付けられての4位。低迷の要因は、リーグワーストとなる101個の失策数。 
 「ディフェンシブ・ファースト」。原点に立ち返り、足元を見つめる。そこから辻の改革はスタートした。 
 開幕から2ヵ月がたった。目下、西武は26勝21敗。まずまずの出だしである(6月1日現在)。


 文化放送の解説者として古巣の試合に目を光らせるアニヤンこと松沼博久は言う。
 「辻監督が目指しているのは黄金期の走攻守にスキのない野球。失策数も、今年はかなり減っています(リーグ3位の少なさ)。辻カラーが出ているのはライトとショート。ライトの木村文紀は打撃はまだまだですが、彼が入ったことで外野が引き締まった。守備は一級品ですから。
 ショートの源田壮亮については、キャンプの時から守備力を買って〝アイツを使う〟と明言していました。僕らは〝でもバッティングが……〟と思っていましたが、監督は全くブレなかった。
 ここまで全試合に出場し、打率も3割1厘(6月1日現在)。彼が2番に入ったことで打線につながりも出てきました」


 続いては黄金期の西武で二遊間を組んだ石毛宏典の辻評。
「南郷のキャンプで会った時、〝今年はメンバーを固定しろよ〟と言ったんです。というのも西武が強い時は、ほとんど不動のメンバーだった。二遊間はオレと辻、ファーストは清原和博、キャッチャーは伊東勤。外野は秋山幸二、平野謙、DHにはオレステス・デストラーデがいた。
 それは辻も同じ考えだったみたいで、今年は源田、秋山翔吾、浅村栄斗、エルネスト・メヒア、木村文が今のところ全試合に出場している。中村剛也も休んだのは1試合だけ。徐々に辻イズムが浸透しつつあるんじゃないかな」


 辻には自他ともに認める師匠がいる。西武に入団した時の監督・広岡達朗だ。
 '84年、辻はドラフト2位で社会人野球の名門・日本通運から入団した。即戦力内野手として高い評価を受けていたものの、広岡にすれば「赤ん坊」も同然だった。


 辻は語ったものだ。
 「入団1年目のキャンプ、僕は最初、ノックすら受けさせてもらえなかった。〝まだ早い〟と。ファウルグラウンドの空いているところに連れていかれ、いきなりポンと目の前にボールを置かれた。〝これを捕れ〟とね」
 社会人時代は名手と呼ばれた辻だが、こんな指導を受けるのは初めてだ。


 その心は――。
 「要するに足を使って捕れということなんです。手だけで捕りにいくなと……」
 広岡から「辻を一人前にしてくれ」と命じられたのが当時の総合コーチ黒江透修だ。
 広岡が黒江を〝指導教官〟に選んだのには理由がある。実は黒江こそは広岡の弟子第一号なのだ。
 「僕は'64年に巨人に入団した。先輩のショートが広岡さんです。当時の巨人は広島への行き帰りは急行の二等寝台車を利用していた。今で言えばグリーン車ですよ。
 二段ベッドで僕が上で広岡さんが下。広島からの帰り、図々しくも先輩に、〝どうしたら僕は使ってもらえますか?〟と聞いた。広岡さん、ムスッとしていましたよ。
 しかし、あまりにも僕がしつこいので、ついに答えてくれた。〝オマエのグラブ捌きじゃ首脳陣は恐くて使えないよ〟と」
 黒江は広岡の教えを、そのまま辻に伝授した。
「コロコロとボールを転がす。腰を下ろし、左足の前で捕る。来る日も来る日もその繰り返し。それによって随分うまくなりましたよ」


ここで捕るか抜かれるか
 セカンドでの8度のゴールデングラブ賞受賞は史上最多である。 
 「辻には何度助けられたかわからない」
 7年間、西武でともにプレーした松沼は言う。
 「足元を抜かれ、〝しまった!〟と思って振り向くと、必ずそこには辻がいた。しかも捕ってからの切り返しが速く、送球も正確。捕った後、辻は〝どうだ、やったぞ!〟みたいな顔をして、僕にサインを送る。アウトとヒットじゃ大違い。本当に彼には乗せられました」


 二遊間を組んでいた石毛も「心強い仲間だった」と言う。
 「辻は僕よりも2つ年下で、僕より3年遅れでライオンズに入ってきた。入ってきた頃は、それほど目立つ選手じゃなかったんだけど、人一倍、向上心が強かった。見る見るうちにうまくなりました。
 僕の送球が悪いと〝ここに放れよ〟という目をして怒っている。こっちは〝ハイハイ、ごめんね〟と。当時の選手は先輩だろうが後輩だろうが言うことは言う。遠慮しない雰囲気がありましたよ」
 だれが名付けたか「守備職人辻」。恐らくグラブの縫製技術にその名をとどめているのは辻だけだろう。 
 現役時代、辻は「久保田スラッガー」のグラブを愛用していた。もっと捕球面を浅く、広く使いたい。そんな希望をメーカー側が具現化したのが世にいう〝辻トジ〟だ。
 文字にするのは難しいが、グラブを浅く、広く使うために小指のすぐ下のところに余分に3本のヒモを通した。この独特の縫製技術を、そう呼ぶのである。


 グラブのつくり方にまでこだわった理由を、辻はこう説明する。
 「僕が一番重視するのは〝球際〟なんです。ここで捕るか抜かれるか。たったひとつのプレーで試合の流れは変わるんです。僕はグラブから半分手を出しながら捕ったこともある。もう執念ですよ。だから勝負の〝際〟に強い選手を育てたい」
 アマチュアの俊英たちが集うのがプロの世界である。そこで生き残るには〝際〟に強くなければならない。
 考えてみれば仕事だってそうだ。ここで踏みとどまれるか、押し切られるか。もう一歩、踏み込めるか、諦めるか。危険を察知して素早く引き上げるか、無為に時間を浪費するか。勝利と敗北、成果と損失は常に背中合わせの関係にある。その分かれ道は〝際〟を制するか否か。そこに尽きると言っても過言ではない。


名将から受け継いだもの
 〝勝負の際〟について話を続ければ、大仰でなく全国のプロ野球ファンが固唾を飲んだ30年前のビッグプレーを素通りするわけにはいかない。
 '87年の日本シリーズ第6戦。舞台は西武球場。西武が日本一を達成したこの試合の8回裏、私たちはとんでもないプレーを目にすることになる。
 2対1と西武1点のリード。2死一塁で秋山の打球はセンター前に飛んだ。普通なら一、三塁の場面だが、あろうことか一塁走者の辻は三塁を蹴り、本塁に向け突進しているのだ。 
 「おそらくセンターのウォーレン・クロマティには〝まさかホームまでは行かないだろう〟という油断があったと思うんです。しかも彼は左利きだから送球がシュート回転すれば、ボールは二塁方向にそれる。中継の川相昌弘が右に回ればその分ロスが出る……」
 辻の狙いどおりだった。巨人のスキを突いての追加点は単なる1点以上の重みがあった。球界の盟主交代を印象づけるシーンでもあった。


 中日の監督時代、8年間で4度のリーグ優勝を果たした落合博満は、コーチを選ぶ上で、ひとつの基準を示していた。
 優勝の仕方を知っているか否か――。全盛期の西武を主力として牽引し、ヤクルトでは知将・野村克也の薫陶を受けた辻は、落合にしてみれば喉から手の出るほど欲しい人材だった。


 今季の指揮官の顔触れを見てみよう。西武OBは辻を含め、工藤公康(福岡ソフトバンク)、伊東勤(千葉ロッテ)、森繁和(中日)と4人もいる。
 西武組に迫るのが野村の教え子たちだ。栗山英樹(北海道日本ハム)、真中満(東京ヤクルト)、そして辻。
 「お師匠さんを見れば、(やろうとする)野球がわかる」
 野村の説に従えば、球界を代表する名将である広岡達朗、森祇晶、野村克也の下で野球をやってきた辻は、もうそれだけでエリートということができる。昔風に言えば幹部候補生だ。


 その点を本人に質した。
 「広岡さんは、とにかく厳しかった。メガネの奥がキラッと光っただけで、僕らはシャキーンとなった。いつもピリピリしていた。立っているだけで存在感を感じさせるような人でした。
 一方、森さんは僕らに任せてくれる部分が多かった。あまり細かいことは言わない。一人前の選手に対してはおとな扱いしてくれました。


 野村さんはID野球という代名詞のせいか理論派のイメージがありましたが、裏ではよく選手のことを考えていましたよ。マスコミの使い方もよく知っていた。コメントを通じて選手を叱咤したり激励したりね」


――では〝オレ流〟は?
「落合さんは、ものすごく選手寄りですよ。選手を叱りたい時でも我慢する。だから僕らコーチは、とにかく選手をサポートする、やりやすい環境をつくることに専念していましたね」


――4人の中では誰が理想の監督か?
「全員でしょうね。全部ですよ」


 広岡2年、森10年、野村3年、落合5年。名将たちの下での20年の歳月。それは知見や経験が熟成するには十分過ぎるほどの時間である。


辻が「中心」に指名した男
 野村克也が古田敦也を育てたように、森祇晶が伊東勤に全幅の信頼を寄せていたように、名将に「分身」の存在は不可欠である。
 辻がキャプテンに自ら同じポジションの浅村を指名したのは、グラウンドでの代役を期待してのことに他ならない。


 指揮官の狙いを松沼が代弁する。
 「辻監督の最高のファインプレーは浅村をキャプテンにしたことですよ。浅村はワーワー言ってチームを盛り上げるタイプではないのですが、キャプテンになってから明らかに変わりました。
 練習ではひとりで黙々と打ち込み、背中でチームを引っ張っている。辻監督の期待をひしひしと感じているのでしょう」


 黄金期の西武は、とにかく活気のあるチームだった。ひとりひとり、決して仲が良かったわけではない。しかし、いざ試合が始まると不思議な団結を見せた。
 その中心にいたのが二遊間の石毛と辻である。


再び松沼。
「僕がマウンドに立っていると、石毛と辻がバンバン声をかけてくる。〝アニヤン、しっかり!〟とかね。辻なんか僕より6つも年下なのに、〝しっかりしてください〟なんて一度も言ったことがない。〝しっかりしろ!〟ですから。まあ〝できる男〟というのは物怖じしないんでしょうね」


 辻とて最初から〝できる男〟だったわけではない。獅子の群れの中で鍛え上げられたのだ。


辻の回想。
「そりゃエラーをすれば落ち込みますよ。自分自身にカッとなったりもしますよ。そんな時、石毛さんから言われた言葉が未だに忘れられないんです。〝打って返せ!〟。慰められるより叱られたほうが、どれだけ楽か。そういう役割を浅村には期待しているんです」


 指揮官の思いが通じたのか目下、浅村は絶好調である。開幕から3番に座り、45打点(6月1日現在)はリーグトップ。攻守両面でチームを引っ張っている。


 中心なき組織は機能しない――。野村克也も、こう語っている。名門復活に向け、いぶし銀の指揮官は着々と手を打っている。球団との契約は2年。時間は止まってはくれない。待つのは歓声か、罵声か。還暦の前に結果は出る。


「週刊現代」2017年6月17日号より