下手の横好き(馬と獅子が好きです)

主に西武ライオンズ、競馬のことを主に書いています。

【昔話】工藤詐欺事件の1982年パ・プレーオフ/西武創設4年目にして初の栄冠を奪った昭和57年。獅子黄金時代の幕開け。「肉食うな!」の監督令に逆らって「ハム(肉)」を食って「竜」を討ち、初の日本一へ!/まあこの年のプレーオフは、平井さんらにも貴重な教訓になるのでは???

今日の昔話は、
広岡監督就任1年目の1982年(昭和57年)のお話です。


「新風」のスローガンの下に
反抗しながらも広岡イズムを浸透させながら
弱小球団が創設4年目に一変して悲願を成就しました。


西武ライオンズの黄金期はここから幕を開けました。


この1982年までのパ・リーグは
前期、後期の2シーズン制で戦い、
シーズンが終了したら、
前期優勝球団と後期優勝球団が
プレーオフで対決して

リーグ優勝の覇権を争います。


当時のルールは
このプレーオフを制した方が
「パ・リーグ優勝」ということになります。


※今のように「CS勝者」とは立場が違います。
 その代わり、前期、または後期で優勝が必須条件であり、
 2位、3位による敗者復活、ワイルドカードはありません。
 前期の優勝者と、後期の優勝者で戦います。
 当然、前期&後期をどちらも制せば、
 プレーオフはありません。
 もちろん、これにはこれで
 良い面もあれば、逆に制度上の課題も残ります。
 そこはまたいつかの機会で・・・


なお、1982年は前後期2シーズ制の最終年になりました。
(次年度からは1シーズン制でゲーム差が小さいとプレーオフ有り)




さて、この1982年の西武ライオンズについては、
前期シーズンが始まると、
最初は勝ったり、負けたりでしたが、
4月中旬から5連勝を果たして勢いに乗ります。
この5連勝は、
選手らの広岡イズムへの反抗心を和らげる布石になりました。


4月下旬には単独首位に躍り出ます。


5月25日の阪急戦では、
東尾の完投と、4番田淵の連続アーチで貯金11に伸ばしました。
西武は広岡の期待通り競り合いに強いチームに変わってきました。


ただし、首位を譲らなくとも連勝、連敗を繰り返しました。


選手らに危機感を強めさせられたのが6月2日の日ハム戦。
東尾が木田の投げ合いで敗れた試合でした。
でも、このとき、東尾はエースの立場でありながらも、
だらしないピッチングをし、相手のバント処理もミスを。


これに広岡監督もエースに対して雷を落としました。
試合後「この試合、東尾にくれてやった
そして次のローテでは東尾を外しました


東尾といえば、当時、投手陣のトップの存在。
年齢では6月に広島から移籍してきた
高橋直樹が最年長でしたが、
東尾はエースとして投手陣の中心的存在でしたね。


そのトップに入れた『喝!』は
東尾自身にもそうですけど、
周囲も気を引き締めるよう意識を強めさせられました。


その後、6月11日からも
6月に入って2度目の三連敗を喫し
首位の座を阪急に譲ることになってしまいます。


6月14日の近鉄戦で首位を奪還しますが、
まだ阪急とのデットヒートが続きます。


西武の勢いは
6月20日の南海とのダブルヘッダーで加速します。


1試合目は
終盤で南海に逆転されるものの、最終回の無死三塁に。
「一塁手」も「4番」も奪われていた田淵が代打で登場し、
意地の逆転2ラン弾を放って勝利。これで勢いに乗ります。


2試合目は兄やんが完投勝利で連勝します。


その後、もう1つ勝って
6月23日に西宮球場で開催された阪急戦。
この試合は、勝った方に
前期優勝のマジックナンバーが点灯する西宮決戦
に。
西武は、この大一番で勝負強いバッティングを見せ、
阪急に打ち勝って、結果は西11―4急の大勝。


そして6月25日、
日ハムとのナイターを前に
阪急が昼間の藤井寺球場の近鉄戦で敗れて
西武ライオンズの
前期優勝が決まりました。


広岡監督は
「ナイスショットなしでグリーンに上がった気分。
 最初から騒がれすぎて迷惑をかけてしまったこともある。
 しかし何でも勝てばいい。西武はこのまま伸びていけば
 恥ずかしくないチームになるだろう」とコメント。


たとえ「前期」と言っても
創設以来の「初」となる栄光です。
大いに盛り上がり、西武百貨店等は大バーゲンに。


堤オーナーは、もし日本一になったら?の質問で
「月旅行をプレゼントします」とはしゃぎましたね。


ただし、この2シーズン制は
後期終了後にプレーオフが行われますから、
プレーオフも直近となる後期の状態が左右されやすく、
前期優勝球団より後期優勝球団の方が有利
とも言われていました。


それだけに、
後期優勝は是非とも欲しいところでした。


しかし、後期は前期優勝で気の緩みもあって
大沢親分が率いる日ハムが独走する中
近鉄にも後れをとって3位で終了。


前期優勝の歓喜の二日酔い状態のように
西武が三連敗から幕を開けて、開幕ダッシュを失敗し、
オールスター直前には5位まで後退しました。


そこでそのオールスター中にミニキャンプを実施
一般的には、球宴時期にキャンプはしませんが、
今でもそういうミニキャンプはあってもいい
と思いますね。
球宴期間とかに限らず、
例えば、不振等に陥った者同士など。


しかし、日ハムの勢いはすさまじく、
お盆明けには6.5ゲーム差まで開かれてしまいます


そこで、
広岡監督は「後期優勝」を諦め、
ハムとの「プレーオフ」に

照準を切り替えました。


これで1982年のパ・リーグはプレーオフ
広岡「管理野球」の西武と
大沢親分の日ハムの対決に。


大沢親分は、広岡監督の管理野球(肉より野菜)について
「草ばっかり食ってヤギさんじゃあるめえし」
「メエメエ、ヤギさんで勝てるのか」
「ヤギさんチームに負けるものか」
とケチをつけていましたね。


まあ、親会社は「ハム」が売りの『食肉製販業』ですし、
これもパ・リーグを盛り上げる一環だったようですね。


通年成績で見ると、
西武は68勝58敗4分(勝率0.540)
ハムは67勝52敗11分(勝率0.563)
引き分けが多かったハムが勝率で西武を上回っていました。


でも、この時期は2シーズン制ですから、
そのチームの通年成績は全く関係ありません。
(個別成績は別)


ただし、西武の日ハムとの対戦成績(通年)は
11勝14敗1分とやや分が悪かったです。


その上、
西武は優勝経験が無し、優勝争いも乏しい
日ハムは優勝経験があり、優勝争いもある。


すなわち、
経験面からみても西武の方が分が悪かったです。


総合的に見ても
「西武<日ハム」の構図は否めませんでした。


ただし、具体的に後述しますが、
戦力構成を考えると、例えば投手陣なら
日ハムは超優秀者が3名いるけど、あとは優秀~平均。
西武は超優秀者は不在だけど、優秀者が6名
という違いはあったと思います。


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ところで、両チームをもう少し見てみると、
今まで弱小チームであった西武球団の選手らも
この年になると役者が揃ってきます。


投手陣については、
エースは14年目のはぐれトンビと呼ばれるベテラン東尾修
気迫で投げ込み、プライドは誰よりも高いです。
松沼兄弟の兄・博久。二年前の新人王を獲得して以降、
下降線は否めませんが、地力は高いサブマリーンです。
弟の雅之は2年連続2桁勝利。安定度は抜群です。
前年は新人王候補だった2年目の杉本正は左腕先発の一番手です。
(新人王のタイトルは同期入団の石毛が奪取)
シーズン途中で広島から移籍してきた高橋直樹は、
かつては日ハムでもエース級の存在でした。


高橋直樹は、
1980年、日ハム大沢親分が抑えの江夏をどうしても欲しく、
20勝エース・高橋とリリーフエース・江夏の
大型トレードで広島へ移籍していましたね。
でも広島では、セ・リーグに慣れずに活躍できず、
82年6月、広岡監督の後輩ということもあり、
古沢・大原とのトレードで西武へ移籍してきましたね。
このトレードはお得でした)


高橋直樹は、後期にロッテ戦で
僅か89球、試合時間も2時間で2安打完封勝利を果たし、
このとき「不思議とパ・リーグで投げると落ち着く」
とコメントしていました。


ちなみに、このときバッテリーを組んだ
黒田が構えた位置に来なかったのは
89球中わずか3球しかなく、
あとは構えたところに全て投げ込んだらしいです。


中継ぎ投手も勝利に貢献しました。
小林誠司。広島から移籍して2年目で
サイドスローに変えてよみがえりました。


工藤公康。この年に入団してきた超高校級サウスポー。
広岡はこの工藤の潜在能力を高く買って常に一軍帯同させました。
森繁和は5月になると抑えに回って活躍しました。
そして永射保。多彩な変化球を持つ左のワンポイントです。


一方、野手陣の方は、
広岡監督の下、プライドも傷つけられながらも
生まれ変わったホームラン打者・田淵幸一をはじめ、
攻守ともに一流のベテランいぶし銀・山崎裕之
福岡時代からの生え抜きとなる強靭のスラッガー大田卓司
2年目で若獅子の完全燃焼男・石毛宏典
ダンディな髭がトレードマークの元大リーガー・スティーブ
(頭は輝かしいですが。。。)
豪快なプレーが象徴とする心優しきテリー
(恵まれない子供らを招待するテリーボックスは有名)
南海から移籍してきた左の一本足打法の片平晋作
強肩の正捕手・大石友好ベテランの第二捕手・黒田正宏
高校時代は「左の原辰徳」と称された若獅子・立花義家
守備職人の名脇役・行沢久隆
そのほか岡村や広橋、伊東など新勢力の若獅子らも台頭。



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一方、日ハムは、
前年1981年にも後期で優勝を果たして
プレーオフで前期優勝のロッテを3勝1敗1分で下し、
リーグ優勝を果たして
日本シリーズで巨人と後楽園決戦を行いました。
(日本一は巨人にもっていかれますが)


キャリアは、優勝経験の無い西武より上です。


この1982年の前期は勝率5割を超えるものの、
Bクラスの4位で終えました。
しかし、後期に入ると、盆明けには18勝8敗で独走
9月末に貯金は最大で18まで伸ばします。
終わってみたら35勝23敗7分(勝率0.603)
2位の近鉄に4.5ゲーム差をつけました。


当時の日ハムは、投手陣を見ると、
大沢親分が
大物の左打者(門田、福本、リー等)を抑えないと
パでは勝てないと左対左を意識し、
リリーフエースの江夏のほか、
高橋一三、間柴、村上、木田と集めて左腕が揃い、
そして20勝投手・工藤幹夫防御率1位の高橋里志
そのほか、岡部憲章などがいます。


工藤幹夫は、
アンダースローからサイドスローに切り替え、
2年目の前年1981年から多く登板するようになりましたが、
勝ち星を稼げず頭打ち状態になっていました。


でも、その前年の1981年、二軍戦で、
13勝4敗1Sでファーム最多勝となり、
力を着実につけていました。


そして、この1982年、爆発的に覚醒します。
20勝4敗(前10勝3敗、後10勝1敗)、防御率2.10
(途中14連勝)
最多勝、最高勝率、ベストナインのタイトルを得て
ハムの新たなスターとして輝き、
一気に頂点へ駆け昇ります。


ただし、日ハムからは
この工藤幹夫を最後に20勝投手は現れずですね。
まあ今の時代、20勝は難しすぎますが。



例えば投手陣は、日ハムの場合、
先発の工藤幹夫&高橋里志の二枚看板に、
リリーフの江夏を軸にして
(この3人が抜けている)
その他が諸々という感じですね。


一方、西武の場合、
工藤幹夫&高橋里志ほど抜けてませんが、
先発は東尾、松沼兄弟、杉本、高橋直樹といて、
抑えは江夏より落ちますけど、森繁和がいてと。


要は、投手陣を5段階成績で見れば
日ハムは5の選手が3名いて、あとは3~4。
西武は5の選手がいなくて、4が揃っている
みたいな印象でしたね。


ただし、打撃に関しては、
「西武<日ハム」でしたね。
本塁打は西武の方がやや多かったですが、
打率、得点、打点、盗塁は日ハムの方が多かったですね。


日ハムの場合、
HRを打てるソレイタ、パンチのある柏原を軸に
クルーズ、古屋、島田誠、高代、正捕手の大宮がいます。


打率10傑については、
8~10位ですが、古屋、島田誠、柏原が入っています。
(西武は4位のスティーブ1人のみ)


ただ、日ハムの場合は固定メンバーが多く、
柏原、ソレイタ、古屋は全130試合、
島田誠、クルーズも125試合出場でしたが、
西武の場合は成長途上ということもあってバラツキはあります。
石毛で124試合、テリー、スティーブ、山崎で122試合。
片平、田淵、大田と120試合未満。


―――――――――――――――――――――
それでは、1982年のプレーオフに入りましょう。
このプレーオフは、第1~2戦が前期優勝球団、
第3~5戦が後期優勝球団のホームで行い、
先に3勝した方が勝ちになります。


第1戦(1982年10月9日、西武球場)
西武は、東尾を「後ろ」にもっていったので、
初戦の先発は高橋直樹に託しました。
高橋直樹は古巣ハムを相手にやる気に満ちます。


一方、日ハムの方は、
本来なら20勝投手の工藤幹夫が挙げられますが、
工藤幹夫は、1か月前に
家でふすまに挟んだ右手小指を骨折して離脱していましたから、
登板が難しくなっていました。


大沢親分も工藤幹夫は無理と話していました。
「骨折の工藤は投げるはずがない」


確かに、試合前、姿を見せましたが、
右手にぐるぐる包帯を巻き、ギブスしている・・・
これじゃ、
工藤幹夫は投げられる状態にありません。


それだけに西武の方は、
勝負のカギを握るのは「江夏一本」
的を絞って作戦も立案していました。


ただ、初戦は誰が投げてくるのか?
高橋一三?間柴?岡部?木田勇?
彼らも十分驚異の存在になっています。


このとき、
セ優勝争いをしていた巨人の偵察部隊は
先発は高橋一三じゃないの?と読んでいました。


まあ、木田は新人王のルーキーイヤーが全盛で
2年目のジンクスもしっかり経験し、
それ以降、パっとしなく潰えた代表的な投手ですけど。
















しかし、第1戦の
スターティングメンバーが発表されると、
『ピッチャー工藤幹夫、背番号15』


『えっ?工藤???はぁ???』
皆が騒然・・・


堤オーナーも、ちょうど
『田淵のトレードはない』と記者会見しているときに
その工藤幹夫先発の知らせを聞き、
「えっ、偵察要員なんじゃないの?」と。
田淵トレードの噂は広岡監督との不仲説からで
それを堤オーナーが否定したときですね。


相手次第でメンバーを代えるための
「偵察メンバー」ということもありますが、
少なくともアナウンスされた以上、
投手は打者1人には投げないとなりません。


『打者1人だけ投げて交代?』
無くはありませんけど。。。


ところが、マウンド上には、
包帯を外した工藤幹夫がビシビシ投げています。。。


初回裏の立ち上がりは、僅か12球で
石毛、山崎、スティーブが三者凡退。。。


2回裏も田淵が出塁しますが、
一死から片平を一ゴロ併殺で無失点。。。


『骨折って三味線か!』
『ペテンかよ!』
当然、そんな空気になっていきます。


広岡監督も、
『スポーツマンシップの風上にも置けない』と激怒。


結局、
工藤幹夫は、スイスイ投げて
7回無死一塁まで無失点に抑え、

江夏にスイッチしました。


一体、工藤幹夫の騒動は
何だったのか???


本人は、
骨がくっついてないのは事実なんです。
 ウソだと思うなら医者に聞いてくださいよ」と。


一方、大沢親分は、
ウソついて申し訳なかった。
これも一つの作戦だから」と


おいおい、どっちなんだよ???
骨折のまま投げたの?ウソ、三味線だったの?


謎のまま終わりましたね。。。


ところが、大沢親分は、後日談によると
医者からプレーオフには間に合うと聞いて、
2日前から密かに練習をさせていたとか。。。


やっぱり『三味線』『ペテン』だったのか・・・


ただ、工藤幹夫の実力を考慮すれば、
普通に登板させてもその実力を発揮して
獅子打線を抑えることはできた、と思いますが、
大沢親分自身、
やはり不安はあったんでしょうね。


そう、
そこには工藤幹夫が手負いの状態だったということと、
広岡監督の策略への警戒心が。。。


やはり本人が言っていたように
『骨折』は治ってない状態で投げたのは事実のようですね。


本人の引退後の暴露でも
「実はまだ骨がくっついておらず、
 ドクターストップがかかっていた」とのこと。


工藤幹夫が通院していた世田谷区の病院の院長に
マスコミも取材しており、
実はレントゲンはウソの写真ではないか?とかも聞いたみたいで
その院長の話では
「医者が骨折していないものを骨折と診断したら
 どんなことになるか、わかるでしょ。あれは100%骨折です。
(日ハムから何かお願いがあったか?)そんなものはない。
だいたい私もハラハラしながらテレビを見ていたんですから」と。


すなわち、大沢親分は
『三味線』『ペテン』と言えば
『三味線』『ペテン』でしたが、
たとえ、骨折していても
『20勝挙げた工藤幹夫の実力』に賭けた
んですね。
今では「ブラック」と言われ、そこは問題になります
ただし、工藤の骨折中広岡マジックに不安はどうしても残った
というところでしょうか。


それでも、工藤幹夫は、獅子打線を
6回0/3、被安打3、与四球2、奪三振1で無失点
ですから、ある意味で『化け物』です。


しかも、7回無死一塁で代えられましたが、
本人は「何で失点も許してないのに!」と
マウンド上で大沢親分に食って掛かります。


「まだ1点も取られていないんですよ。
 ここまで引っ張っておきながら何で代えるのか。
 ここで降りるのは嫌だと…


意地があったんでしょうね。


ところが、
この後、第3戦にも先発登板します。。。
(そこはまた後述します)



では、一旦「工藤幹夫」事件は置いておいて
第1戦の話に戻しましょう。


西武の先発・高橋直樹の方は、
その工藤幹夫が好投していることもあってか、
古巣ハムに燃えていたこともあってか、
工藤幹夫に負けずに力投し失点を許しません。


5回2/3を被安打3、与四球2、奪三振3で無失点に。
次の永射もワンポイントで抑えて、ハムは5回まで無得点。
3番手の東尾も危なげなく失点を許さず抑え続けます。


結局、工藤幹夫が降板した7回無死一塁の状況で
西武0-0日ハムと、
双方ともゼロをスコアボードに並べていく投手戦になりましたね。


西武投手陣は、高橋直樹~永射~東尾と完封リレーで
日ハム打線を抑え込んでいきます。
日ハムも併殺打が4つと悔しさばかりが残る結果に。


で、勝負の分岐点、
このプレーオフの焦点は、
日ハム二番手で登板した
江夏vs獅子打線でしたね。


江夏といえば、球界を代表する一流投手です。
曲者ですが、語り継がれる歴史的名投手ですね。
オールスター9者連続奪三振
ノーヒットノーラン時の「野球は一人でもできる」
江夏の21球など、後世に伝わる伝説話です。


この1982年は晩年でしたが、
成績は55試合8勝4敗29S、防御率1.98
奪三振率10.6と勢いは衰えていませんでしたね。


後の1984年に西武に移籍しますが、
巨人が獲りたかったから
それを邪魔するために西武が獲った裏事情

後々に知ったわけですが、
当時、前年の1983年も
51試合2勝4敗34S、防御率2.33であり、
その82~83年の成績は生涯の中でも良い結果だったので
(防御率ならプロ18年で2位、4位)
1984年の『江夏の西武入団』は期待しましたよね。。。


そんな江夏ですから、
打ち崩すことは簡単ではなく、至難の業とも言えました。


でも、広岡率いる獅子軍団の中では
『江夏対策』をきっちり策定しており、
あとはそれを実行するのみでしたね。


江夏は凄い名投手ですが、
あの太った体形ですから、豪快に三振を奪いたく、
あまりマウンドから動きたくないタイプです。


広岡西武はそこを突きましたね。


そして、江夏とバッテリーを
かつて組んでいた田淵、黒田の情報
攻略するのに価値がありました。


相手を熟知して、
そこを活かして相手を討つ!
基本の一つですね。


7回裏は江夏も工藤幹夫を継いで無失点でしたが、
8回裏、テリーが中安打で出塁すると、
無死一塁で打席には片平。
片平自身もアベレージバッターであり、
そうバントの経験も少ないわけですが、
バントの特訓は積んでいました。


2球目にバットできず、
B2S1からプッシュバントを敢行
突っ込んでくる江夏と三塁手・古屋の間へ
きれいに転がしてその間を抜けます。
バットも超短く持って打ちます。


それが内野安打になって
無死一二塁から次の西岡が送りバント成功。


一気に一死二三塁のチャンスを築き、
打席には捕手の黒田が
ただ黒田も打率0.213と
そう打てるタイプではないです。


江夏も戦前、
「勝負は西武打線ではなく、広岡監督」
と言っていたように、広岡の策に警戒を深めていました


そのくらい『広岡野球』
相手にとって嫌らしく、警戒されました。


先ほどの片平のプッシュバントもあっただけに
「ここは黒田がスクイズか?」
江夏の疑心暗鬼は濃くなります。


そして、黒田はスクイズしそうな雰囲気を醸し出しながら
結局、その過度な警戒心で黒田を歩かしてしまいます。


実は、黒田は南海時代に江夏とバッテリーを組んでいたので
江夏の性格・特徴を熟知していました。


それだけに、黒田の方から広岡監督に
「スクイズの構えをさせて下さい」と進言していました。
そう黒田曰く
「南海で2年間バッテリーを組んだ経験から、
アイツ(江夏)が瞬時の判断でスクイズを
はずせることを知っとったからや」と。


逆に黒田がスクイズをしていたら、
警戒している江夏はそれを阻んでいたかもしれませんが、
黒田はスクイズをカモフラージュにして、
江夏らに「スクイズ警戒しないと!」と意識させ、
江夏の集中度を発散させてリズムを崩した黒田の巧技
でした。


まさに江夏を知る者だからこそ
効果を発揮できた作戦だったとも言えます。


そして、大田の打席で
一死満塁のチャンスが転がり込んできました。
ただ大田も江夏には、シーズン中
11打数1安打6三振の成績でした。


江夏&大宮のバッテリーの狙いは「併殺打」
江夏自慢のストレートを外角に投げ込んで
あとは泳がして「併殺打」


大田もその外角球を打たされますが、
開き直って振り切った打球
江夏を強襲してグラブをかすめて二遊間を抜け、
ゼロ封の均衡を破る先制2点適時打を放ちました。


江夏の方は気が短いだけに
「憤怒」が増してきています。


大沢親分も試合後、この片平&大田の攻撃について
「ツキが無かった。大田だっていつもなら三振、
 片平だって一つ間違えれば併殺だった」と。


とにかく江夏も頭に血が上っています。
なんせ、そのやられ方が
何かおちょくられたような形になったわけですから。
(今では当たり前にありそうですが、気が短い)


無死一三塁で打席には石毛。
石毛は112個と三振が多かったわけですが、
ベンチは江夏らの裏をかいてエンドランを仕掛け
石毛がレフト前に放ってもう1点奪いました。


江夏はこれでKO。
もう後の祭りでした。
ハムの守備も乱れ、
結果としてこの1イニングで一挙6得点。


西6-0ハムで試合終了。
西武は「工藤詐欺事件」に意表を突かれますが、
江夏を計画通り攻略して第1戦を制しました。


―――――――――――――――――――――
第2戦(1982年10月10日、西武球場)
先発は西武が兄やんこと、松沼兄。
ハムが防御率1位の高橋里志


先制点は初回に西武が奪いました。
先頭の石毛が左中間二塁打で、山崎がバント成功。
スティーブが四球で歩き、一死三塁に。
田淵が高めストレートで中犠飛で1点先制。


しかし、獅子打線はそれ以降、
高橋里志を前にゼロを並べます。

防御率1位投手も伊達ではありません。


一方、兄やんもストレートに
シンカーやカーブを駆使して
5回まで内野安打1本の無失点に。


6回になって雨が降ってきます。


兄やんは一死から高代を歩かせ、
次のクルーズに
2球目の外角へ投げたシュートを
バットの先で左中間に運ばれて適時二塁打を。
同点に追いつかれます。


柏原を敬遠の後、ソレイタが打席に。
そこでソレイタの天敵であるワンポイントの永射を投入。
永射はとにかくソレイタをカモにしており、
着実にハムを抑えて逆転を許さず。


しかし、三番手の松沼弟こと、弟やんが7回裏、
先頭の古屋に初球カーブを失投して逆転ソロ弾を。
続く大宮にも一二塁間を割られ、
ここで弟やんを諦め、小林を投入。
小林はそれ以上の追加点を許さず。


さらに8回表からルーキーの工藤公康が登板し、
危なげなく無失点に抑えて味方の反撃を待ちます。


8回裏、西1-2ハムと1点差ビハインドの中、
石毛が二ゴロ、山崎が三振と簡単に倒れて二死に。
でも、スティーブが中安打で出塁し、代走に小沢。
そこで、日ハムは高橋里志から江夏にスイッチ。


江夏も前日の借りを返上したいところ。
二死一塁で打席には、
阪神時代にバッテリーを組んでいた田淵。
B1S0からの2球目、
田淵が強振すると遊撃手を抜ける左二塁打に。
田淵は懸命に走って滑り込み二塁ベースを陥れます。


二死二三塁でテリーの打席では、
B2S1から江夏が外角一杯に突きますが、
判定はボールに。
江夏が審判に怒ってクレームをつけますが、
その判定は覆らず。江夏の怒りが収まりません。
江夏は冷静さを取り戻せずテリーを歩かせ、
二死満塁に。


そこで前日、江夏からタイムリーを放った大田。
B2S1から4球目でセンターを抜ける適時打に!
小沢が生還し、田淵も鈍足ながらも
迫力満々でホームへ突っ込み、
捕手・大宮を避けるように回り込んでスライディング。
この田淵の気迫と大田の執念で
江夏を攻めて2点逆転打に。


この後、先発で好投した高橋里志と
抑えられなかった江夏が喧嘩をしたかは?わかりませんが。
この二人は広島時代から犬猿の仲で
大沢親分が、
「よそでなら、なんぼでもケンカしろ。
 でもな、ふたり一緒にマウンドに上がるわけじゃねぇ。
 今度は俺の下で働くんだから、とにかく黙って仕事しろ」
と二人を説得したという逸話があるくらいですからね。


最終回はストッパー森繁和が抑えて
西3-2ハムと、西武が連勝で王手を掛けました。


とにかく、
西武は『江夏攻略』を徹底して
その戦略がビシビシ決まって
ハムを食いまくりました。
(広岡監督の「肉食うな!」指令に逆らって)


点差こそ1点差でしたが、
『江夏を攻略すればハムは堕ちる』に自信をつけ、
堤オーナーの「西武球場で連勝しろ!」にも応えました。


そのオーナー命令も
プレーオフで最初から連勝すれば、
過去7年を見ると、100%が優勝を決めるという傾向からですね。


それを実現するのも間近かでした。
ただ、あの男が獅子の足を止めます・・・


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第3戦(1982年10月12日、後楽園球場)
舞台を後楽園に移すも、雨天で1日順延。
先発は西武が左腕の杉本。
一方、ハムは骨折のはずの20勝男・工藤幹夫
工藤幹夫は第1戦で7イニング以上を投げて中2日。。。


でも、工藤幹夫の骨折はホンモノ。
まだ骨がくっついていない状況。
とはいえ、日ハムも後が無くなっただけに、
工藤幹夫と心中する気で託した形に。。。


大沢親分は
「昨日、診断してもらって「大丈夫」と言われたので」
とコメントを。


でも、獅子打線は
その骨折をしている工藤幹夫を攻めきれず。

1点ビハインドの5回表に
石毛の初球を打ち込んだ左中間の適時二塁打で
同点に追いつき、石毛はこの日、3安打の猛打賞でしたが、
チーム全体で7安打を放つも、
散発で決め手も欠いてその1点しか得られませんでした。


この手負いの工藤幹夫は、結局、
一人で1失点のまま完投してしまいます。


逆に日ハム打線も、
杉本~東尾~永射~小林の継投の前に
2点のみでしたが、
その工藤幹夫の好投に応え、
要所を押さえながら攻める展開に


4回に先制点を奪うと、
追いつかれた直後の5回裏に
島田誠の適時打ですぐに逆転。
工藤幹夫が投げやすくなるよう
中盤以降、
極力リードを保つ展開に持ち込みました。


結局、第3戦は、工藤幹夫の力投により
西1-2ハムで日ハムが一矢を報いました。


これで西武は2勝1敗。


広岡監督は
「工藤のペースにハマった。優勝を焦った」と。
大沢親分は
「ケガをしてあれだけ投げるんだから大した奴だ」と。


しかし、この工藤幹夫は、
この無理が祟って投手生命を縮めました。


その工藤幹夫も、この年がピークで、
翌年8勝しか挙げられず、それ以降は勝てず、
2年後の1984年に一軍戦登板が最後になります。


その理由は、
まさにこのプレーオフでの強行登板でしたね。


骨折が治り切らないうちに投げたこと骨が変形。
その結果、投球フォームのバランスを崩し
右肩を故障するという悪循環を招いてしまいました。


故障と戦いながらも、
1988年に野手転向を決意しましたが、
その年に28歳の若さで現役を引退しました。


高橋直樹は、後に
「日本ハムでは木田や工藤が
 一年でダメになっているでしょう」
と大沢親分のやり方を批判していました。


まあさすがド根性「昭和」の話です。
今では「NG」ですね。
平井さん、
お気を付けを!


この工藤幹夫という投手は、
もの凄い閃光を放って輝きましたが、
その輝きも一瞬で燃え尽きてしまいましたね。
でも鮮明に「記憶」に残る投手であったことは確かです。


ただ、不運にも4年前、肝不全のため
55歳の若さで他界されましたね。合掌。


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第4戦(1982年10月14日、後楽園球場)
休養日を挟んでの第4戦です。
先発は、西武が第1戦で好投した高橋直樹。
日ハムは第2戦で好投をフイにされた
防御率1位の高橋里志。


第1戦は最後に獅子打線が
江夏を攻略して大爆発しましたが、
それまではスコアボードにゼロが並べられる展開に。
第2~3戦もロースコアの投手戦の展開に。


この第4戦も高橋対決となっただけに、
投手戦の可能性が想定されましたが、
その期待を裏切って
空中戦に一変する展開に。


先制点は2回表、一死満塁の場面で
捕手・黒田がB3S1からスクイズを決め、
三塁から鈍足・田淵の大迫力な激走で奪います。


でも後が無く逆王手を掛けたい日ハムは、
3回裏、一死三塁の場面で
クルーズが高橋直樹のど真ん中カーブの失投を見逃さず
ライトスタンドへ運ぶ逆転2ラン弾を放つと、
続くソレイタが内角ストレートを
ライトスタンドへ運んでソロ弾を決めます。
高橋直樹は第1戦と違って
2回2/3の47球でKOに。


さらに二番手に東尾が登板しますが、
古屋に内角ストレートの初球でソロ弾を打ち込まれます。


この1イニングで3発被弾して一挙4失点となり、
流れは日ハムへ傾きかけ、西武は焦ります。


今、西武が王手をしている状況ですが、
この年の西武に優勝経験はありません。
逆王手をされれば、
優勝経験のある日ハムに本拠地・後楽園で
そのまま持っていかれる可能性が高いからですね。


しかし、その直後の4回表
テリーが高橋里志のカーブをライトスタンドへソロ弾を。
この元メジャーリーガーの一発は
消沈し始めるベンチを灯す反撃の狼煙になりました。
高橋里志はこれで下がり、ベテラン高橋一三へスイッチ。


そして、二番手の東尾は相手の追加点を許さず、
5回表、二死から山崎が左中間に二塁打を放ちます。
次のスティーブには、高橋一三が
B2S2から内角一杯にストレートを決めたつもりが、
際どく外れてボール判定に。リズムを崩して与四球に。
続く田淵に対しても与四球で歩かしてしまい、
気づくと、高橋一三が自滅しかける二死満塁に。


確かに高橋一三は制球力が優れている方ではなく、
その制球難の課題を露呈しました。


その二死満塁で打席には
前の打席で一発放ったテリー
確かに、投手側から見れば、
与四球後の初球は
簡単にストライクを取りにいかないこと
ある意味で、一般論で言われる定石ですね


テリーは、制球難の高橋一三は
与四球後に必ずストライクを入れてくる傾向から
「初球勝負」に的を絞って初球に全精力を集中させます。


高橋一三が投げた初球のスクリューボール。
回転が効かず甘く入ってテリーはそれをフルスイング。
完璧な当たりで大逆転のグランドスラムを!

さらに6回表にも黒田がレフトスタンドへ
ソロ弾を決めてダメ押し1点を追加。
黒田はこのシーズンでは僅か1本しかHRがありませんが、
リーグ初Vへ大きく前進する値千金の一発を放ちました。


日ハムもロングリリーフする東尾から
7回裏に1点返上して2点差まで追い詰め、
木田~江夏の継投で7回以降を無失点で抑えますが、
時すでに遅く、小林がハムの反撃を許さず、
西7-5ハムで試合終了。




【プロ野球】1982年総集編② 西武初優勝!ビールかけ 後期は日本ハムが優勝


西武が
初のリーグ優勝を果たし、
日本シリーズへの進出を決めました。


広岡監督は、
「短期決戦は相手も死に物狂い。
 だから「守りの野球」がモノを言う。
 勝因は投手がよく勉強して
 相手に点を取らせなかったこと」と投手陣を評価。


このプレーオフでは、
最後の第4戦は5点を失いましたが、
第1戦は無失点、第2戦は2失点、第3戦も2失点と
防御率でいえば、2.31でした。


田淵は「プロ14年目で初の優勝だ!


MVPを受賞した大田は
相手は中日じゃなく巨人とやりたい


ただ、大田次の中日と対戦した日本シリーズ
大チョンボをしてしまいます。
前夜の深酒の影響でチーム便に間に合わず練習に遅刻
ペナルティーも覚悟しましたが、その罰符は無く
“罪滅ぼし”の3ランを放ちましたね。


テリーは
「逆転HRは人生最高のバッティングだ」


東尾は
「最高にいい気分だ。日本シリーズも
継投になるだろうからその役割を立派に果たす」


高橋直樹は
「トレードで西武へ来てよかった」





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その後、日本シリーズでは
中日と対戦になりました。


日本シリーズでは、
敵地・ナゴヤ球場の第1~2戦を西武が圧倒的に連勝


竜党のファンらは大激怒でゴミを投げまくる事態に陥り、
第2戦のヒーロー&監督インタビューが中止に。


しかし、今度は
本拠地・西武球場で第3~4戦を西武が連敗


どちらも「本拠地で連敗」という形で
双方2勝2敗のタイで4戦を消化しました。


第4戦後、広岡監督は
「相手はギリギリで優勝してその疲れが1、2戦あったでしょ。
だから第1~2戦は楽に勝たしてもらったわけですよ。
それがこっち(西武球場)に来て
相手のコンディションが整ってきた。
元通りになって、きちっとやって来るから
そりゃ、楽ではないですよ」と。


ところが、第5戦(西武球場)、
序盤に左腕・杉本が中日・平野
に一塁線に痛烈な当たりを打ち込まれて
先制を許しそうだったところを、
打球が審判の足にぶつかって、
走者田尾が三塁へ戻ろうとしたときに
結果、田尾が送球で刺されて
アウトになったところでしたね。


それが流れを変えました。

1982年日本シリーズ西武対中日 石ころ事件


結局、第5~6戦を西武が連勝して
初の日本一の栄冠を奪取しましたね。

プロ野球ニュース1982日本シリーズ 西武対中日


もちろん、
この年の西武はまだまだ発展途上にありましたが、
ここから西武ライオンズの
黄金期が幕を開けます。


まさにスローガン「新風」のとおり
球団に新しい旋風を
呼び込んだ年になりましたね。