下手の横好き(馬と獅子が好きです)

主に西武ライオンズ、競馬のことを主に書いています。

【訃報】西武OBの片平氏ご逝去。最後までライオンズ&所沢愛の溢れている方でした。

西武OBの片平晋作氏
亡くなられたようです。
22日午前9時58分なので、
雪が降り始めた頃ではないでしょうか。
11月に末期の膵臓がんが判明したらしく、
その後、闘病生活を送られて亡くなられたようです。


膵臓がんというと、星野氏もそうでしたね。


子供の頃、西武が所沢に来たときから野球を見始め、
片平氏というと、初めて知ったのは
緑のユニフォーム(南海)の一本足打法の選手
という記憶があります。


一本足打法といえば、
子供心ながらも
晩年期ですが王さんの姿があったので、
特徴があった打者という印象でしたね。


で、根本監督時代、西武球場に観に行くと、
初めは西武も、南海も弱かったですが、
緑のユニフォームの一本足打法の片平氏には
打たれている記憶がかすかに残っています。


しかし、広岡監督就任1年目
山根氏らを放出し、2対2トレードで
その一本足打法の片平氏がライオンズへ。
その年は、一時期、広島に行っていた
アンダースローの高橋直樹氏
トレードでライオンズに。
高橋直樹氏は日ハム時代に
やられているイメージがありましたけど、
このとき、兄ヤンとともに西武には
アンダースロー投手が2人揃いました
ね。
このとき、高橋氏はヒゲを生やしていたけど、
兄ヤンはヒゲを生やしていなかった気が。。。


片平氏は西武に来られてからも、
安定した成績を残しつつ、
広岡西武を支えて黄金時代を築く
欠かせぬ一員になっていました
ね。
1年目はプレーオフで、広岡監督は
ハムの江夏対策としてバント対策を講じ、
片平氏がプッシュバントでチャンスを築きました。
その次の打者がバントで送り、
大田氏のタイムリーで
江夏から貴重な1点を奪取し勝利。
その年の中日との日本シリーズでも
片平氏はタイムリーを放っています。
広岡氏の最終年は
日本一こそ阪神に奪われましたが、
打率3割を打ってリーグ優勝に貢献しました。


最後は森監督の1年目まで
安定して活躍をされました。
森監督1年目の西武での最終年は
ベテランとして活躍し
3割近くを打っていました。

しかし、清原等の若手も台頭し、
昨年、亡くなられた
名ワンポイントのサウスポー永射氏とともに
大洋へ移籍されました。


その後、引退されてからは、
AKD砲の威力を示した
西武黄金時代の全盛期に
一軍打撃コーチとして西武へ復帰。
その後、二軍監督まで務められて、
一時、フロント入りされながらも、
今から10年前の
最後に日本一になった渡辺政権下で
二軍監督に再び返り咲き、
数々の若手らを育成されました。


確かに南海でデビューされて
10年勤められましたが、
西武に移籍されて以降ずっと
35年に渡って亡くなられるまで所沢市民であり、
西武を長年支えられてきた方でした。
西武を、所沢を、第二のふるさと
とおっしゃってくれるほどでした。


最後のユニフォーム姿は
女子プロ野球・アストライアの初代監督で
女子プロ野球の発展に勤められました。
今のアストライア監督で元巨人の辻内監督には
『選手との会話の中で生まれた
 気づきは大切にしろよ』
『選手を信じる気持ちは誰よりも持て』

と指導されていたそうです。


そう、片平氏というと最近は
野球中継の解説でも特徴的でしたね。
決して、選手らをけなさない。
ポジティブに選手を前向きに語ってくれる。
しかも、西武のみならず相手のことも。
きちんと西武のことはもちろん、
相手のことも十分勉強されて
詳しく深く把握されていました。
そのため、変に誤魔化したりもしません。
とにかく、
心のこもった解説者でしたね。


もう片平氏の解説が聴けないのは残念です。


今までありがとうございました。
心からご冥福をお祈りします。



元西武の片平晋作氏が膵臓がんで死去 68歳
1/22(月) 17:55配信(日刊スポーツ)
 プロ野球の西武の内野手などとして活躍した片平晋作(かたひら・しんさく)氏が22日午前9時58分、膵臓(すいぞう)がんのため亡くなった。68歳だった。西武球団が発表した。 
  片平氏は東農大から71年ドラフト4位で南海に入団。1本足打法で知られるようになった。82年には西武に移籍して一塁手として活躍し、82、83年の連続日本一に貢献。89年に大洋で現役を引退した。
  引退後は西武の1軍打撃コーチ、2軍監督などを務めた。


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