下手の横好き(馬と獅子が好きです)

主に西武ライオンズ、競馬のことを主に書いています。

【雑記】下手投げ投手徒然。今では絶滅危惧種。西武の下手投げ投手といえば。

さて、西武といえば
「山賊打線」「獅子威し打線」と言われるように
打撃のチームですが、今年は(試合ができるかは不明ですけど)
ドラ1三銃士(光成、今井、松本)らが覚醒・本格化し、
勝ちパも平良がホンモノに育ち、
まだ若い外国人ギャレットもNPBで本領を発揮して
長期に(3~5年)所属でしてくれる本格派になり、
「獅子の投手王国復権」の礎になる年になってもらいたいところです。


もちろん、その実現には上記の投手らのみならず、
本田国場らも安定して活躍できる存在に育ち、
(昨年、活躍した泰雄はあんなもんかな)
十亀榎田もベテランとして投手陣を支え
(できることなら松坂や内海も)
與座浜屋などの新興勢力が台頭してくれることが必須ですね。


その中で興味深い要素の一つが『與座の可能性』ですね。


與座については、
いずれは「QSを達成できる先発」として育って欲しいですが、
少なくとも、今の與座の使い方としては、
先発で6回とかまではなくても、
アンダースローだからこそ、
ショートスターターの使い方も有効
になり、
(最大3イニングで)
もう一歩でその使い方は実現可能になりそうですね。


打者一巡目をアンダースローの與座に任せ、
二巡目からは別のタイプの投手を投入して、
(例えば、左腕とか速球派を二番手に)
相手打線を翻弄させる、ということに期待を持てます。


そのようなショートスターターの使い方により
與座のアンダースローという良さ
大いに活かすことがデキ、

與座の機能をもの凄く発揮することができる
可能性を秘めていると思います。


先発ローテの谷間や、
今年、日程が過密になるのであれば
主力を休ませるためになおさら
そのショートスターターの使い方は有効です。


今の與座には、
相手打線の二巡目、三巡目への対応力という課題を残していますが、
もちろん、相手打線の二巡目、三巡目も抑え、
6回まで投げることができるなら
その後、速球の「勝ちパ」や左腕・中継ぎに継投すれば、
相手もタイミングが狂いやすいですから、
「與座の変則ぶり」の機能は大いに発揮できますね。


今となっては貴重な絶滅危惧種アンダースローですから、
貴重な戦力として期待できますので、
負傷には注意しつつ覚醒してくれることを願ってます。


そのような「アンダースローの変則ぶりの効果」
活かした例を挙げると、古い事例ですが、
黄金時代の森政権・初年1986年における
日本シリーズ第7戦(広島戦)
が挙げられますね。


当時の第7戦では、
アンダースローの「兄やん」こと松沼博久から郭泰源に継投し
そのまま広島打線を抑え込み、逆転王手を掛けましたね。
(以下も各OB個人の敬称略)


カーブを多投した変則アンダースローの兄やんから
速球派の郭泰源への継投
なので、
広島打線はそのタイミングが全くつかめず完全に翻弄されて
衣笠も郭の前に三球三振とて手が出ませんでしたね。


まあこの年、不振だった兄やんが
第4戦、7戦と好投していたこともありましたが。
(広島はアンダースローに合ってなかった?)


ちなみに、1986年の日本シリーズというと、
緒戦引き分けからの三連敗で王手をあっさり奪われ、
工藤や郭泰源をリリーフに回して戦い、
崖っぷちの第5戦の延長12回で工藤のサヨナラ打で流れを変え、
そのまま逆転4連勝で日本一を奪いましたね。


さて、西武のアンダースローというと、
所沢に来た初年度にルーキーとして入団した
前述の「兄やん」こと松沼博久がいますね。


子供のころ、個人的な話ですけど、
兄やんは、そのアンダースローの雄姿から
もの凄く好きな選手でしたね。


兄やんは、弟やん・松沼雅之と兄弟揃って入団しました。
このときのルーキーには、ドラ1の森繁和もいて、
ある意味、三羽カラスのような期待感が溢れてましたね。


まあ、森繁和が今のように
あんな「親分」タイプの形相になっているとは
子供のころ、夢にも思っていませんでしたが(^o^)


松沼兄弟というと、
「江川問題」で因縁の仲になっていた
西武vs巨人の獲り合いにもなっていましたね。


当時の週刊ベースボールでもその獲り合いの事情が書かれてましたが、
(昔、うちの親父が買っていた雑誌を読んだ記憶が)
(国会図書館に行けば見ることができますよね)
後世で出版された
「西武と巨人のドラフト10年戦争」(坂井保之, 永谷 脩)などに
そのあたりの詳細な背景の暴露話が書かれていますね。
その坂井氏の著書などを参考に当時の入団経緯を以下に書きますね。
 ※今、その本も手元にないので、
  読み間違え・読んだ時の記憶違いも
  あるかもしれませんが、あしからず。


西武から見ると、
クラウン時代に江川の指名権を獲得したのに
クラウンが西武へ身売りされてから、
西武が江川の交渉権を譲渡されるものの、
交渉に全くならず、江川側はそれを断り、
そこから巨人との因縁の関係が始まりましたね。


巨人が獲ろうとしていた江夏の生殺し横取り問題や、
西武側から仕掛けていた清原&桑田問題などもありましたね。


その後、「江川問題」は、ざわざわと騒動になって
最後は「空白の一日」とかあって、
小林繁とのトレードで決着しました。
ちなみに、
小林繁もアンダースローに近いサイドスローでしたね。


兄やんの話に戻しますと、
入団前は弟やんの方が下馬評は高かったですね。
そのため、
巨人は兄弟二人での交渉をしていましたが、
本音は弟やんのみ獲得したかった
西武は兄弟セットで入団させたいと交渉し、
この仲がいい兄弟は
そのまま西武にドラフト外で入団しましたね。


もともと、弟やんは、
兄やんが所属していた東京ガスで
一緒に野球をやりたいという考え
だったようで、
肩も悪かったので、プロを見据えていなかったようですね。


そこで、ドラ1クラスの契約金が3千万円の時代に、
巨人は二人セットで8千万円を提示したのに対し、
江川に続けて連敗できない
西武はその倍額近くの1億5千万円を提示したみたいですね。


そして、兄やんは巨人の選手というと
「派手すぎるかな」という疑問を抱え、
弟やんは巨人が嫌いということで、
最後は根本の言葉で落ちたようですね。


結局、プロ成績も、肩を悪くしていた弟やんは
兄やんを抜くことができませんでしたが。


さて、兄やんの現役時代の投球動画を示します。


【兄やん投球動画】

1982 松沼博久 VS 三沢淳 アンダースロー対決


初めて西武が日本一になった年の日本シリーズですね。
動画は西武が2勝1敗で迎えた第4戦の映像です。


これを見てもわかりますとおり、
アンダースローでしたが、牧田らと比すると、
リリースポイントは、牧田らほど深くなく(下ではなく)
サイド気味といえば、サイド気味なんですよね。


このとき、中日の三沢もアンダースローであり、
第4戦で兄やんと「アンダースロー対決」を果たしますが、
 ※結果は兄やんが先制され3回で交代。
  試合は中盤に追いつくも、谷沢の一発で負け越し敗戦
第6戦では高橋直樹と再び「アンダースロー対決」になりましたね。


西武ライオンズのアンダースローというと、
生え抜きで兄やんがいましたが、
トレード移籍入団組では、
大洋で活躍していて、クラウン時代にトレードで入り、
そのまま西武に残っていた山下律夫とか
日ハムで大活躍していた高橋直樹がおり、
二人とも背番号が「17」番だったことを覚えています。


ただ、高橋直樹の場合、
右腕を大きく上げてから振り下ろしますが、
今思えば、リリースの出方は「サイドスロー」でしたね。


そして、日ハムで主軸の先発投手でしたが、
江夏との電撃トレードで広島へ出され、
その後、西武の古沢とのトレードで入団しましたね。
このトレードは、高橋直樹の働き&格を鑑みると、
戦力的観点ではお得でしたね。


古沢というと、サイドスローの右腕であり、
田淵と一緒に初年度1979年に阪神からトレードで
西武へ移籍してきましたね。


「がんばれ!タブチくん」でも登場して、
タブチくんといつもバッテリーを組み、
困らされながらも仲の良いキャラクター
フルサワくんのモデルになってましたね。
(実際はそんなタイプではないでしょうが)


一方、山下律夫は、アンダーでもあれば、サイドでもあり、
スリークォータでもありと何でもありのタイプでしたね。
所沢移転後は、もう晩年ということもあり、下降線でした。


この年に山村&山下と片平&黒田のトレードで
南海へ移籍していましたね。
このトレードも、片平の働き(引退後も含め)を鑑みると、
戦力的観点ではお得でしたね。


ところで、
この1982年の日本シリーズは4戦までタイで展開しましたが、
流れを変えたのが次の5戦の序盤に
左腕・杉本が中日・平野
に一塁線に痛烈な当たりを打ち込まれて
先制を許しそうだったところを
打球が審判の足にぶつかって、走者田尾が三塁へ戻ろうとしたときに
結果、田尾が送球で刺されてアウトになったところでしたね。


まあ致命的な流れの転換期は
珍プレー王である中日・宇野のチョンボですけど。


そのまま連勝で西武の初・日本一が実現しましたね。
まあ、このシリーズというと、
ナゴヤ球場で勝った西武に
中日ファンが物を投げるということがありましたが


その5年後の1987年、
森政権で巨人を日本シリーズを倒したときも、
森監督が堤オーナーへ報告したとき、
堤オーナー
「負けたチームのファンでスタンドから
 空き缶を投げるような人間には
 スポーツを見る資格はない」と
巨人ファンを非難したことがあった記憶があります。


ちなみに、この1982年というと
中日の方は田尾が大洋の長崎と1厘差の首位打者争いをしていて、
大洋戦で田尾に対する5打席連続敬遠とかもありましたね。
最後の5打席目はわざと空振りもしていましたが。


その田尾や前述の平野
いずれは西武に来て黄金期に貢献したのですから
これも何かの因果というところでしょうか。


まあ、西武の黄金時代の伝説というと、
その次年の巨人との日本シリーズや、
森政権時代の巨人、ヤクルトなどとの闘いが有名ですけど、
1982年というと、広岡達朗監督の1年目のシーズンで
弱かったライオンズがようやく真価を見せ始めて
前期優勝、プレーオフ勝ち、そして日本一に
初めて立った年でしたから、猛烈に嬉しかった年でしたね。


当時は選手名鑑に選手の住所も載っていましたから、
今では考えられませんが、
我々子供らは、選手宅へサインをもらいに行ったり
あと往復はがきで「日本一おめでとうございます!」と送って
サインを返信してもらったりしましたね。


いぶし銀の山崎
その後、何年も直筆の年賀状を送ってくれましたね。


まあ、話はまとまりがなくなってきましたが、
コロナも飽きてきましたから、昔を思い出す、ということで。