下手の横好き(馬と獅子が好きです)

主に西武ライオンズ、競馬のことを主に書いています。

【平成最後の日-特集】節目の日でもあるから歴史を振り返ることに。『メラドとその周辺』の歴史的変遷を「空中写真」と「地形図」で大正時代から振り返る。西武球場の前身『西武園球場』も空中写真で確認!当時はフィールドの向きが逆向きだったんだね。また隣接する多摩湖には、昔、ハイカラな洒落たホテルもあったんだね。

さあ、今日は平成最後の日です。
普通なら平成を振り返るわけですが、
まあ、特別な節目の日でもありますの
歴史を振り返るということで、
大正終期、昭和、平成における
『メラドとその周辺』の変遷
西武球場が建設される前の時代から)
国土地理院の
空中写真地形図で簡単に振り返ってみます。


※一応、調べて記載しておりますが、
 誤り等もある可能性はあります。
 誠に申し訳ありませんが、
 そのときはご容赦下さるよう
 お願い申し上げます。


まず最初に、位置関係などの確認も含めて
現在の地形図と空中写真を示します。

空中写真へ簡単に地名等を加筆しましたが、
現在との比較においては、
上記の現在における地形図をご参照下さい。
(1番最初の図です)
(※国土地理院の空中写真の最新版は2008年です)


現在の地形図を見ると、
下(南)の方に多摩湖が存在します。
多摩湖は左右(東西)でダム堤体により分けられており、
左(西)側を上池、右(東)側を下池と称します。
多摩湖より左上(北西)にある池は狭山湖です。


西武ドーム(メラド)西武球場前駅は、
狭山湖と多摩湖(左右に区分するダム堤体)の間にあります。


ちなみに、多摩湖の右端に村山下ダムの堤体があります。
多摩湖は、この村山下ダムの堤体で堰き止められたダム湖です。
狭山湖もダムで堰き止められたダム湖です
どちらも、東京都民のための水瓶になっているダム湖です。


その村山下ダムの右(東)側には、
西武多摩湖線の西武遊園地駅があります。
そこから多摩湖下池の上(北)側に沿って
西武山口線(レオライナー)が走っており、
西武球場前駅に直結していますね。
なお、西武球場前駅~西所沢の西武狭山線は、
西武球場前駅から右上(北東)方向に走ってます。


では、以下、古い順に空中写真や地形図を並べていきます。


まず戦前の1920年頃(大正10年頃)
1930年頃(昭和5年頃)の地形図を示します。

1920年頃は、狭山湖はまだ表現されておりません。
狭山湖は昭和9年に竣工ですから、
1930年頃の地形図で示されています。
多摩湖の竣工は、上池が大正13年、下池が昭和2年ですから、
1920年頃の地形図では出てきており、
1930年頃の地形図では現在の形を成しております。


なお、多摩湖が完成した翌年1928年には、多摩湖付近に
旧西武鉄道が「村山ホテル」(下図参照)を建設します。
多摩湖を中心とした狭山自然公園への観光を目的にしてます。
当時としては、ハイカラな洒落たホテルになってます。

また、その観光地へのアクセスとして、
今の西武狭山線が1929年に開通します。
西武球場前駅は、当時、村山公園駅と称され、
1933年に村山貯水池際駅と改称され、
多摩湖を上池、下池で区分するダム堤体付近、
今の若獅子寮や第二球場の付近にあったそうです。


次ぎに太平洋戦争開戦前の1941年6月の空中写真
戦後の1947年、1956年の空中写真を示します。
左が狭山湖、下が多摩湖です。

太平洋戦争中は、多摩湖や狭山湖も爆撃対象となりました。
(一部、被害が生じたようです)
そのため、重要施設である貯水池というのを隠したく
村山貯水池際駅は村山駅と改称され、
結局、戦争中は資源不足でもあったので
営業休止を強制されます。
しかし、戦後1951年には狭山線として営業を再開し、
村山駅から狭山湖駅と改称され、西所沢方へ300m移設しました。
(※今のフラックス前、工事中の新たな若獅子寮付近です)


また「村山ホテル」も戦中は休止して荒廃していたので、
改修されて1950年に「多摩湖ホテル」として営業再開しました。
今の西武山口線レオライナ―の前身「おとぎ電車」
起点・遊園地前駅(今は廃止)が
当時、多摩湖ホテル前駅と称されていたそうです。
今の遊園地西 - 西武遊園地間に位置しています。

ただし、1961年には廃業しています。


ところで「おとぎ電車」というのは、
多摩湖ホテル前駅(後の遊園地前駅)と
ユネスコ村(今は廃止)を結ぶ
おもちゃみたいな簡易の電車(蓄電池機関車)であり、
1972年に蒸気機関車も併用しはじめました。
子供の頃、乗りましたね。

1984年、廃止になって今のレオライナ―に代わっていきます。
その廃止時、「おとぎ列車」のレールを輪切りにした
記念レールが発売され、今でも持っております。
(上の記念切符は他所の画像です)


次に1964年、1971年、1974年の空中写真を示します。
西武ライオンズが所沢に来る1979年より前の年代です

1964年、1971年の空中写真は白黒で
白っぽくなっているので見ずらいのですが、
(1974年のカラー写真を見るとわかりやすいです)
今のメラド付近に、
細長い長方形の施設野球場が存在しますね。


その細長い長方形の施設は、
狭山スキー場
狭山スキー場は、
1959年に開業して今に至ります。


正直、平成5年に船橋でザウス室内スキー場ができたとき、
狭山スキー場は潰れるかなと思っておりました。
私は滑らないのですが、滑る友人に聞くと、
雪質が狭山スキー場では厳しいようで、
ザウスの方がめちゃめちゃ良いらしく、
また狭山スキー場の方がダサい、
彼女を誘いにくい、とか言ってました。
(なら、本物に行けよ、と思いましたが)
ザウスの方が客も多く、流行ってましたからね。
理由はわかりませんが、
まあザウスが勝手に無くなったおかけで
狭山スキー場は生き残れたかな、と思います。


一方、球場の方は、
ライオンズが来るまで約15年間あったようで、
野球場の向きも今とは逆になってます
(北側がホームベース)


この球場は、情報が乏しいのですが、
1963年に建設された
「西武園球場」という球場のようです。
(西武が保有していたらしい)
アマチュア対象のため小規模な球場です。
ただし、2軍戦ではわずかに使われていたようです。
1977年には、
2軍戦の巨人対日本ハムが開催されたとか。


ちなみに、
次は今の西武球場前駅の前身「狭山湖駅」です。


次に西武ライオンズが所沢に来た1979年
その後の1984年の空中写真を示します。

【1984年】

1979年、ライオンズが所沢にやってきます。
私も小学校低学年の頃で覚えています。
でも、最初は弱かったですね。。。
それでも初年度は珍しくもあり、
僅か23試合で51万4千人の観客数となり、
前年クラウン時代より大きく増え、

(前年1年間で76万6千人)
景気良いロケットスタートを決めました。
ただし、初年度の年間観客数は
130試合で136万5千人となって
パ1位を誇り、前年の1.8倍に増えました
が、
序盤23試合に比べると
1試合平均は半減と、ペースダウンしています。
その原因は、最初はモノ珍しかったけど、
やはり弱かったことが大きかったと思います。


ただし、翌年から2年連続で150万人超と増えます。
しかし、それ以降、パ全体が下降線を辿り
西武もその煽りを受け
1984年に初年度を下回る最低記録となります。
(そのパ全体の下降線で南海、阪急は88年身売りに)
それでも86~94年は黄金期もあり
ハムには及びませんが、160~200万人弱で盛り返します。
でも、その後、パ全体で再び下降線が訪れますね。。。
いずれは近鉄消滅とかにつながっていきますが。

【ライオンズがやってくる】1978.10.13読売新聞

【新生ライオンズ 西武誕生!】※出典:ライオンズ60年史より

【西武球場建設工事の様子】
※出典:土木施工20巻6号(1979.6)より

埼玉県へプロ野球を招聘したい
というのが表に出たのは、
当時の埼玉県の畑知事が正面切って火を焚きつけており、
当時は所沢基地跡地の新設案
県営大宮球場の改造案が浮上していました。
しかし、西武鉄道が所有している
「西武園球場」の改造を打ち出し、
球団を購入する以前に
「器」だけ一足先に決まってしまいました。

(1978.10.13読売)


「西武球場」については、
前述した「西武園球場」が1978年に
プロ野球開催可能な貸し球場として
改築工事に着手されていたとき、
その最中、国土計画が
クラウンライターライオンズを買収して、
所沢に移籍させることになった
ので、
その西武園球場を改修して
西武ライオンズ球場として
1979年に開業することになりました。

ただし、当時の西武園球場と比べると、
規模等も大きくなっているほか、
フィールドの向きが反対になっています。
(ホームベースが北側から南側に)
その理由は知りませんが、
日射しの方向とかなんでしょうか?
ただし、公認野球規則1.04には
「本塁から投手板を経て二塁に向かう線は
 東北東に向かっていることを理想とする」
という文言があります(守られてないけど)。
でも、西武球場は本塁からのセンターライン
西北西の方向なのでちょっと違いますね。。。
南北だけ見てバックスクリーンは北側にしたのか?
まさか風水で決めた!なんてないですよね。。。
(何かありそうだからな。。。)


西武球場は、建設当時、最新鋭の球場でしたね。
(詳細はこちらをご参照下さい)


ただし、当時、賛成ばかりではありませんでしたね。
狭山丘陵の自然破壊のほか、
車公害(渋滞)問題を基に反対の声もありました。

(1978.10.13読売)


西武側もそれを受けて(それに乗じて?)
電車利用PRを徹底的に行い、
観客の90%を電車輸送することを計画していました。
入場券は各駅で電車の切符とセット販売するなども
行われてました。


また騒音問題も出ました。
西武が勝ったり、HRが出るときに打ち上げる花火
騒音レベルが環境基準45ホンを上回る98ホンになるとか
苦情もあったそうです。


もともと西武鉄道プロ野球の関係については、
今の西武ライオンズが最初ではなく、
1936年に設立された
「東京セネタース」から始まります。


「東京セネタース」は
競馬・有馬記念の生みの親でもある
政治家の有馬頼寧をオーナーとし、
40%の持ち株を所有していた
(旧)西武鉄道が経営に加わってました。
ところが1941年に名古屋金鯱軍と対等合併して
「大洋軍」が結成され、
その後、1943年に
西日本鉄道(西鉄)に経営移譲され
「西鉄軍」に改称されました。

しかし、その「西鉄軍」も
戦争激化の波には勝てず
その年に解散してしまいます。


そして、戦後、
プロ野球チームを復活させたいという
西鉄の強い要望と努力
により、ようやく
1950年に「西鉄クリッパース」が誕生し、
その翌年1951年に西日本パイレーツを吸収合併し
「西鉄ライオンズ」が誕生します。
その後は、「太平洋クラブライオンズ」
「クラウンライターライオンズ」と経て
1979年、西武鉄道(グループの国土計画)が
再びプロ野球に関わることになり、

「西武ライオンズ」が誕生し
途中で「埼玉」が入り、今に至ります。


西鉄軍と西鉄ライオンズは
実際、別物ではありますが、
西武鉄道が再び野球に携わった、
しかも、ライオンズで、というのは
何か因果なものだな、とも思います。


最後に2001年の空中写真を示します。

このとき既に西武ドームになっております。
ドーム化が完成したのは1999年でしたね。

確かに森の中から現るUFOですね。


ドームの建設工事については、
こちらをご参照ください。

【西武球場の歴史】※出典:ライオンズ60年史より

【現在のメラド】

日本プロ野球の球場については、
1988年後楽園球場が日本初のドーム球場化として
東京ドームに改修され、
それを皮切りに
福岡ドーム、大阪ドーム、ナゴヤドームと
次々とドーム球場が誕生しました。
西武球場もその波に乗って
ドーム化を進めていき、
西武ドームは
日本で5番目のドーム球場となりました。


まあ、もともとドーム化することは、
堤氏の独断で周囲の反対を押し切って進めた
という噂もありましたね。


堤氏は1979年のときからドーム構想を考えており、
1989年に開閉式ドームの構想を打ち出しておりました。
実際、正式に公表されて
ドーム化計画が始まったのは1996年10月でした。
基本的には、周囲のドーム化の波に伴う影響
ライオンズの営業強化ドーム化に拍車をかけましたね。
1996年の観客数は125万4千人であり、
当時、球団史上最低だった
1984年の131万1千人を下回る状況でした。

(↑↑↑1996.10.2朝日)

(↑↑↑1997.7.8読売)


また昔、地元で流れた噂で(信憑性は不明です)
まだ黄金時代の頃、
東伏見への移転の噂がありましたね。
当時、西武は東伏見に
東伏見アイスアリーナを整備しており、
そこは国土計画アイスホッケーチームの
本拠地でもありました。
その周辺には早稲田大学の土地があり、
ちょうどその頃、
早稲田大学も所沢に進出してくる予定なので、
(今の人間科学部)
それなら、
西武球場付近の西武保有の土地
東伏見の早稲田大学の土地交換し、
少しでも都心に近い東伏見に、
西武ライオンズの本拠地も整備して
アイスアリーナと併せて
西武ライオンズと国土計画アイスホッケーを一か所にまとめ、
東伏見を中心としたレジャー地域を整備する、
みたいな噂がありましたね。


まあ結局、
早稲田大学の人間科学部は1987年所沢に創設され、
早稲田大学は今でも東伏見を十二分に活用していますから、
地元の噂話で終わった話ですけど。。。


ただし、西武ドームは、
自然環境との共存をテーマに
『屋内屋外中間型』のドーム化計画
ということで、
ご存知のとおり、密閉型ドームではなく、
屋根だけ取り付けたような半端なドーム球場
になりましたね。


『アウトドア感覚』ですから、
夏は暑くて、冬は寒く、
日本の四季を感じる球場です。
というか、
夏は灼熱早春や秋は極寒ですけど。。。

まあ、今のGW頃が一番いい季節ですね。

まあ、西武グループも
この平成の時代には、色々ありましたから、
所沢へ移籍してきた当時の
「球場に広告を設けない」というスタンス
背に腹は変えられなくなり
広告はバンバン出しているし、
球場の命名権もお金のために
期限付きで販売しちゃいましたね。。。
(プリンスホテルはグループ内ですが)


【西武ドームの球場名】
 ◇インボイスSEIBUドーム
 ◇グッドウィルドーム
 ◇西武プリンスドーム
 ◇メットライフドーム


まあ、命名権を買った企業の中には
不祥事を引き起こした企業もありましたが。。。


また球団名も2008年に
「埼玉」が加わりましたね。


そして、現在、
球団40周年記念事業として
球場及び周辺の改修・再整備事業
進められていますね。

予算は180億円ですね。
まあ堤氏ら旧経営陣から西武グループへの返金
255億円もその足しになっているかもしれませんが。。。
堤氏は226億円の返金で、
西武HD株を売却して現金7億円を支払うほか、
保有するすべてのNW株(214億円相当)で代物弁済しました。


さて、今建設されている若獅子寮等の建物は
市役所のような感じで
面白みに欠けた建物になっちゃてますが、
まあ新しくなり、
機能性がアップしたことは確かですね。


明日から新時代『令和』が始まります。
辻監督も申されていたように
4月は耐える月でしたが、
この新時代に突入したら、
巻き返していきたいところ
でもあります。
まあ5月の交流戦前までは
まだ耐える月
でしょうが。。。


今年のキャッチフレーズを噛みしめ
新時代、熱狂しろ!


最後に関係ないですが、
平成最後ということで、、、
今年のエンブレムでもあるし、、、

「WE ARE ONE」ビクトリーエンブレム発表!


ついでにこちらも。。。
これはついつい気分で掲載します。。

炎のフルスイング篇昼 30